そっとツイート/ブコメ延長戦

ブロ家もすなる日記といふものを、ブクマ家もしてみむとてするなり。

「ニュータイプ」になれなかった中年オタクの生存戦略

 この前の記事 の続き、のような話になる。

このシロクマ先生の記事に引っかかるものがあった。そしてブコメを残した。

中年以降もオタクを続けるための条件を考える - シロクマの屑籠

そもそも論じる「オタク」の定義で変わる話。流行中のモノを次々追う系は確かに時間・経済力・健康・関心が必須。風化せず生き残ったサブカルコンテンツは古典。これのファンはメインカルチャー趣味人と変わらない。

2025/12/11 22:20

 シロクマ先生の記事に感じた違和感は、まず記事の2つの大前提。

  • (1) 「古典と違いサブカルチャーは儚い」
  • (2) 「オタク趣味を中年以降も続けるのは厳しい」 <

 たしかに、若者向けのサブカルチャーコンテンツを中年以降もリアルタイムで追い続けるのは厳しい、という話は同感である。

 しかし、そもそも論としてここで語られる「サブカル・コンテンツ」や「オタク」というものの定義が現状に合ったものなのか。過去における「サブカル・コンテンツ」や「オタク」のイメージをごちゃ混ぜにして「オタク」という大きな主語で語っているのでは?と違和感を感じたのだ。



サブカル・コンテンツは「未来の古典」の原石である

 第一の違和感、「古典と違いサブカルチャーは儚い」という前提について。

 昨今のコンテンツ消費サイクルの速さは確かに異常だ。しかし、「サブカル=消費物」「古典=永続物」と綺麗に切り分けられるものだろうか。

 かつての歌舞伎や浮世絵、シェイクスピアも、当時は熱狂的な大衆娯楽(サブカルチャー)だったことは私が説明するまでもない。ならば同じように現代のアニメやゲームも、時間の淘汰をくぐり抜ければ、一部は「古典」としての耐久力を持ち始めるかもしれない。

 そして、現在中年期を迎えたオタクたちが若い頃に楽しんだ漫画、アニメ、ゲームなどのサブカル・コンテンツの一部は、当時の熱狂はとっくに冷めてはいてもそろそろ古典的な耐久力を帯び始めてはいないだろうか。もちろんこれは今後の歴史が決める問題なので現時点で何を論じても結論は出ないとは分かっているが。

エリート的「狭義のオタク」と平民的「広義のオタク」

 さて、重要なのはシロクマ先生の記事に感じたもう一つの違和感だ。第二の違和感「オタク趣味を中年以降も続けるのは厳しい」は本当にそうなのか?だ。

 そもそも、「オタク」とは何か(ネットリ

 シロクマ先生の記事は「狭義のオタク」と「広義のオタク」を混同した議論に感じるのだ。ここからが本題。

 私も詳しくは無いのでざっくりとした話になるが、現在一般的に語られる「オタク」とは「広義のオタク」で、かつての「狭義のオタク」とでは性格が違っているのではないか。現在の「オタク」とは、漫画やアニメ、ゲームなどサブカル・コンテンツを主な趣味として楽しんでいる人々が幅広く「オタク」と他称される…というよりもアイデンティティとして気軽に自認する事が多いのではないだろうか。例えば、芸能人もクラスの人気者も「私、実はオタクなんです」と気軽に発言するように。

 しかし、かつては違ったと記憶している。「オタク」、当時的な表記では「おたく」とは、カミングアウトすれば教室の中で差別・迫害を受ける存在であり、オタク趣味を人前で語る事は禁忌の空気があった。

 「オタク」はアイデンティティとして自認するより「あいつ、おたくっぽいよな」と他称されラベリングされる蔑称でもあったと記憶している。

エリート的「狭義のオタク」目線で論じるシロクマ先生

 それゆえにあえて「オタク」を自認し自称する者は強い決意、あるいは信仰心とある種の選民意識すら持っていた。熱く強い情熱でコンテンツと向き合うゆえに優れたセンスと技術、豊富なオタク知識を身に着けている者であるとされていた、と思う。

 シロクマ氏の語る「オタク」は、少なくともそういう「狭義のオタク」、あるいはそういう存在に憧れる意識高い「オタク」の話だ。そういう「狭義のオタク」として中年期をどう生きるかという狭い話を「広義のオタク」である現代一般的な「オタク」という大きな主語で語っているチグハグさを感じた。

平凡な「広義のオタク」であった私

 ちなみに学生時代の私は少なくともエリート的な「狭義のオタク」ではなかった。例えば、おたっきーな漫研とかの同級生を蔑視する、そんな美術部員であった。そして傲慢にもメインカルチャー側を自認していた。

 しかし、徐々にサブカルチャーに浸食されていったのだ(漫研と共用する美術部部室の雑誌とか薄い本とかを読みながら)。やがて社会人時代になり自由になる多少のお金を持ってから気がついたら「広義のオタク」になっていたのだと思う。

メインカルチャーという「地球」と、サブカルチャーという「宇宙」

 雑な例え話になるが「機動戦士ガンダム」シリーズの作品世界的に、メインカルチャーを「地球」と、サブカルチャーを「宇宙」に例えて語ってみよう。

 社会的に認められた「メインカルチャー」や「リア充的な現実」を「地球」とするならば、そこに馴染めず、あるいはそこから弾き出されて辿り着いた場所、あるいは強い決意と冒険心で辿り着いた場所(サブカルチャー)が「宇宙(スペース・コロニー)」である。

サブカルという「宇宙」で覚醒したエリート:「ニュータイプ」と凡人:「スペースノイド

 サブカルという「宇宙」に意志を持って進出した勇気ある誇り高き開拓者であり、「宇宙」に適応し、例えば岡田斗司夫が言うような優れた目(粋の目、匠の目、通の目)という能力に覚醒した者たちこそが「狭義のオタク」いわば「ニュータイプ」である。優れた特殊能力でサブカル・コンテンツを批評しそれを発信したり、自らも二次創作を生み出す。あるいは何らかの事情を抱えて「地球」から「宇宙」に居場所を求めて逃れてきた亡命者・移民者たちも含まれる。

 「狭義のオタク」はオタクである事を自らのアイデンティティとして強く自認し、誇り、こだわりを持っている。おそらくシロクマ先生は、無自覚かもしれないが、こちらの立場で「中年期オタクの危機」を演説している。

 一方で「広義のオタク」は、なんとなくサブカルという「宇宙」にやって来た一般人だ。ただ「宇宙」にいる人、「スペースノイド」だ。サブカル・コンテンツの単なる消費者だ。お客さんだ。オタクをアイデンティティとして強く自認するわけでもなく、もちろんオタクとしての誇りやこだわりもあまり無い。私はこちら側でこの記事を書いている。


シロクマ先生の語る中年オタクは「ニュータイプ」的

 シロクマ先生の記事で語られる「中年期オタクの苦悩」や「生存戦略」は、どこか高尚で、切実な響きを持っている。それはシロクマ先生が想定している「オタク」が、いわゆる「狭義のオタク」つまり「ニュータイプ」だからではないか。

 あの記事から感じるのは、オタクという生き方に高い理想を掲げ、加齢という過酷な戦場でもなお、知性と感性を研ぎ澄ませて戦い続けようとする「理想主義的な継戦論」だ。ニュータイプとして覚醒し、最前線でビームサーベルを振るい続ける覚悟がある者だけが、その言葉に共感するのだろう。

スペースノイド」的中年オタクは悩まない

 対して、凡人「スペースノイド」の私がブコメに滲ませた感情、そして今ここで言語化したいのは、もっと泥臭い「現実主義的な撤退戦(=加齢)」の提案だ。

 私、そしておそらく多くの「広義のオタク」たちは、中年になるまでサブカルチャーに浸かっていながら、結局のところ批評家にもクリエイターにも、何者にもならなかったし、あるいはなれなかった。そもそも「何者か」になりたい衝動も薄い人が多いのでは?私も承認欲求はお手軽にブコメはてなスターで満足できる程度だった。

 平凡な「スペースノイド」は中年期も悩まず「宇宙」でダラダラ過ごせるのだ。

戦ってすらいないので「玉砕」も「敗走」もない

 「ニュータイプ」としての理想も気負いもなく中年の「スペースノイド」は、悩まずにスローライフなオタク人生を平凡に過ごすことになるだろう。

 確かにSNSで垣間見える若いオタクたちのように「宇宙」を縦横無尽に味わい尽くすことはもうできない。そんな中年オタクはオタクとして負けているように見えるかもしれない。しかし、そもそも戦っていないのだ。この前の記事で語ったように、SNSという虚構の戦場で幻の隣人と戦う必要は無いのだ。

 この記事のタイトルに「生存戦略」と書いたが、釣り針である(後釣り宣言、カッコ悪い…)。だって「戦略」など必要ないからだ。そもそも中年期「スペースノイド」、つまり中年期の「広義のオタク」は戦っていないのだから。

 現実生活的には戦っているかもしれないが、それはオタクの戦いではない。それは生活者としてリアルな生存戦略で、それはまた分けて語るべき別の話であろう。