そっとツイート/ブコメ延長戦

ブロ家もすなる日記といふものを、ブクマ家もしてみむとてするなり。

「オタクを降りた」増田にブクマカが伝えたかったこと

 約1ヶ月前のこと、はてな匿名ダイアリー(増田)にこんな記事が上がっていた。

 「しょうもねぇな」と思いながら茶化したブコメを書いた。

オタクを降りた。何も残ってない

まだ、増田があるだろ!増田として誇りを持て!そして、増田の周りにはブクマカがいる。何も残っていなくて、髪の毛も残っていないかもしれないが、ブクマカは、まだ残っている!

2025/12/08 23:52

 しかも無駄に髪の毛の話までコメントして後で少し反省したが、「そう言えば、ハゲと言えばプーチンジョブズだよな」とも思い、「強大な独裁者も偉大な経営者も逃れられないメメント・モリ」へと連想は広がった。

 そこから約1ヶ月、何か引っかかるものを感じ、頭の片隅で考え続けていると、色々と思いに至るところがあった。そして、増田の愚痴も増田個人の話ではなく実は意外と深く、そして一般的な悩みだよなと思い、(孤独なオッサンなので)生成AIのGemini と対話を重ね考えを整理し、久々にブログ記事を投稿する気分になった。

 ブコメを膨らませてブログを書くという主旨で開設したのがこのブログだったし。



増田を襲ったいわゆる「中年の危機」

 長年サブカルチャーを消費した記憶だけが残り、健康も、容姿も、家族も、資産も、友人関係も、何一つ手元に残らなかった、という痛切な増田の告白。たしかに自分にも通じる思いはある。

 しかし、これは中年期オタクに限った苦しみだろうか。

 はてなユーザー層の高齢化も進み、健康と病気、親の介護と葬儀、そして「中年の危機」の話をよく目にする。この増田などもまさに典型的なミッドライフ・クライシス(Midlife crisis)のように見える。

 増田は「自分には何も無い」と嘆く。しかし考えてみて欲しい。増田が持っていないと羨む「健康も!容姿も!家族も!技術も!資産も!友人も!コミュ力!職歴!特技!話のネタ!」、これらは加齢や家庭・職場の状況変化の次第で誰もがいずれ失うものではなかろうか。

 「労働」や「生活」を一生懸命頑張って得た「誇り」も、いつ失うか分からない。

既婚者は離婚するかもしれない。

子どもは独立して親離れしていく。

定年やリストラ、転職で積み上げたキャリアが無駄になることもあろう。

どんなに筋トレして健康に気をつけても病魔は忍び寄るし、対向車線から暴走老人の自動車が突っ込んでくるかもしれない。鍛えてあげてきた技術や話術も加齢で衰えていくだろう。

どんなに一生懸命生きて築き上げて来たものもいつかは失われるものだ。諸行無常

 そういう人生の不条理さが生み出すのが「中年の危機」という心理なのではないかと思う。

どんな偉大な人物も逃れられないもの

 そして最後には、誰もが逃れられない「死」が待っている。結局は全てを失うのだ。

それは全人類にマウントを取ってくる強大な独裁者ですら同じだ。

 ロシアのプーチンと中国の習近平の会話が中継マイクに拾われて話題となった。臓器移植やバイオテクノロジーで150歳まで生きる話だ。世界の超大国の権力者が永遠の若さを追い求める姿に、私はなんだかゾッとした。尽きせぬ欲望で自然の摂理に抗い「アンチエイジング」を追い求める不遜さ。嫌悪感すら覚えた。

 とは言え、確かに「死」は恐ろしい。そして死へと向かっている証拠である「老い」という現象も恐ろしい。 結局死んでしまって全てが無になるなら、人生は無意味なのか。生きる事は虚無なのか?

メメント・モリ(放置系美少女ゲームじゃない方)

 「いずれ死んで無に帰す人生の意味とは?死を思え」というのは昔からの命題だ。色々な偉い人が語ってきたテーマだ。

メメント・モリ」についての比較的に最近で一つの回答を提示したのはスティーブ・ジョブズだろう。

今や伝説と語られる2005年のスタンフォード大学卒業式スピーチで、彼はこう言った。

「死は、人生の最大の発明だ」

 がんを宣告され、死を間近に感じたからこそ、彼は「毎日を最後の日として生きる」ことを選んだ。Stay hungry, Stay foolish——それは去勢を張ったりすることなどではなく、素直に現実と自分の実態を受け入れ、限りある命を、今を懸命に生きることを勧める言葉だったと思う。

 中年期オタクの「若い頃と同じ熱量で新作を追い続ける」姿勢は確かに一生懸命今を生きる姿勢ではあるかもしれない。しかしある意味で自然の摂理に逆らうアンチエイジングのような無理が生じる。若さを保とうとすればするほど、いつか破綻する。増田の「何も残ってない」という絶望は、その末路の一つかもしれない。

増田が本当に降りるべきもの

 では増田は「オタクを降りる」しかないのか。私はそこじゃない、と増田を読んだ時に引っかかりを感じていた。

 そもそも増田が「自分には何も無い」と思うに至ったのはなぜだろう。恐らく他の誰かと比較して感じたのであろう。何者と張り合って増田は絶望に至ったのか。

 これは増田の文章のニュアンスからの妄想だが、その「他人」とはネット越しに見えた「他人」なのだろう。

 しかし、それは本当に実在する人間の実像なのだろうか?

 もしかすると増田は、SNSアルゴリズムと一部のインフルエンサーによって増幅された「幻の隣人」と戦っていただけなのかもしれない。巨人だと思って突撃したら、そこにあったのはただの風車だったドン・キホーテのように。勝てるわけがない相手(アルゴリズム)に、自分の人生という武器で挑み、勝手に傷ついているだけではないか?

 常に最新作のアニメを語り、推しを追い、リアタイで盛り上がる人たち——SNSのタイムラインに流れるそんな活力あふれる理想的なオタク像と自分を比べて、心が折れたのではないだろうか。

 増田はまずSNSなどネットでの空虚なマウントの取り合いから降りるべきだ。

ネットの勇者たちと競り合ってはいけない

 しかも、ネットには幻ではなく実在する巨人もいっぱいだ。ネットで長期に渡り名を馳せる人々はある種の勇者だ。上澄みだ。

 はてな周辺で言えば著名な老舗ブロガーfinalvent氏も、今や電脳化したと囁かれはすれど怪物の一人であろう。

 一方で何者でもない一般的なネットユーザーは、人知れずフェードアウトしていく。言葉を残して去れる者は奇跡的な一握りの存在だ。

「自由はある」と、ガンダムが言っている

 そう言えば、2025年上半期に盛り上がったアニメ『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』の第10話「イオマグヌッソ封鎖」で、「緑のおじさん」ことシャリア・ブルが自分の過去を回想するシーンがあった。

 祖国の運命を左右する資源確保の任務を帯びて参加した木星船団がトラブルで任務遂行が絶望的な状況に陥り、責任を感じたシャリア・ブルは拳銃による自決を覚悟する。その瞬間の時のことを彼はこう振り返る。

「誰の期待に応えることもできない、なにより自分自身の期待にさえ。そうなってはじめて本当の自由が生まれたのです」

 思えば「銃(じゅう)」と「自由(じゆう)」を掛けたクダラナイ駄洒落シーンなのだが、深夜リアタイのテンションもあって私は恥ずかしながら感涙に咽びながら視聴していた。

 これも一種の「メメント・モリ」であろう。ジョブズが至った悟りにも似ていると思う。死を覚悟し、何も持っていない自分の現状を謙虚に認める心境になって初めて気付ける自由。同じように人生の半ばが無為に過ぎたと自覚する年齢に至り、「くだらない人生だった」と何者にもなれなかった自分を謙虚に受け止め、静かに瞑想しSNSアルゴリズムが生成する巨大化した「オタクのあるべき姿」の虚像からも解放されたとき、初めて訪れる自由というものが増田にもあるのではないだろうか。

何者でもないオタク中年男性に残るものは

 増田がまず降りるべきはSNSなどネットの喧騒の場だ。最近の声優を知らなくてもいい。今期の新作アニメをリアタイで追えなくてもいい。

 代わりに、10年前に好きだった声優は誰だったか。20年前に心を揺さぶられたアニメは何か。それをゆっくりと思い出して、味わい直してみる。今は配信サービスという便利なものもある。懐かしいコンテンツを見直す時、若い頃には気づかなかった深み、構造、時代背景、影響関係——年齢を重ねた今だからこそ見えるものがある。児童文学を大人になってから読み返した時に味わえるもののように。

 中年期のオタクが「流行のコンテンツを追えなくなった」と感じる瞬間こそ、実は本当の自由の入り口なのかもしれない。

中年危機の処方箋としての「振り返り」

 脳の健康と老化を研究する東北大学 加齢医学研究所の瀧靖之教授が語っている。「脳科学的な観点からは、(ミッドライフクライシスは)起きうるもの、起きてしかるべきものという見方もできる」と。

 中年オタク増田に限らず、脳科学的には中年危機が避けようのないものだとすれば、どう対処したらよいのか。瀧教授は語る。知的好奇心が強い人の方が前頭前野などの萎縮を抑えられストレスを制御できるのだと。

「自分が『何をやっていれば楽しいんだろう、幸せなんだろう』と少し見つめ直してみて、過去を振り返ることで、『自分はいったい何が好きだったのか』『何が自分がワクワクするのか』というのも見えますし、ミッドライフクライシスを乗り越えるひとつのきっかけにはなる」

 そうして過去を振り返る有効な方法の一つが「自分史」なのだそうだ。

 「自分史」と聞くと自費出版詐欺に引っかかった中小企業の社長が作ったり、その自費出版本を部下や取引先に配って強制的に感想を求める老害仕草というイメージが強い。

 しかし自分史を紙でアウトプットする必要など無いと思うのだ。 ではそれをどこかに書くか。例えば増田に書く。あるいは自分のブログに書く。昔ながらの場所で、歩んだ道のりを振り返る。極論を言えば他人に読ませる必要もない。オフラインのチラシの裏に書いても良い。他人の反応など気にせず自分のために書く。大切なのは自分を振り返るキッカケを作るということだ。オタクとして何が楽しかったのかを思い出すことが大切なのだ。冷めきった好奇心に再びを火を灯すような振り返りがあれば、機能しなくなった脳機能が再び動き出し、中年の危機の心理から離脱することができるかもしれないのだ。そういう一人でも出来る行為が肝心なのだ。

まだ増田には帰れる所がある。こんな嬉しいことはない。でしょ?

 とは言え、全く反応が無いのも寂しいと感じるかもしれない。それならそれこそ増田に書けば、もしかしたら気が向いたブクマカがコメントを残すかもしれない。それで良いではないか。

 無理にネット、特にSNS上の現役オタク(しかもアルゴリズムで誇張された虚構のオタク)に調子を合わせる必要はない。ただ、自分が過去に好きだったものを振り返り、好きに語り書き残せば良い。それが中年期のオタクに残された静かな自由であろう。

 増田よ誇りを持って書けばいい。自由に。

【2026/01/13追記】続きのような話を書いた

bukumaka.hatenablog.jp


【2026/01/11追記】インフォグラフィックを生成してもらった

GoogleのNotebookLM に生成してもらった。 ダラダラと書いたこのブログ記事が、分かりやすい!